ブログを閲覧頂いている皆様
こんにちわ、
大江栄年
です。
おーえさん
オエソン
という名称で呼ばれます。
現在2019年時点の僕は36歳。
起業家としての人生は15年以上で
会社設立に携わった経験は3回ほど
また自分で事業を作りを行った経験は10回以上、、
35歳で自分の会社を売却するなどの経験をし
現在
- CSOアウトソースコンサルティング
- WEB、経営コンサルティング
- 米国、ベンチャー投資
- SNS ブログの配信
などの活動を2020年から行う予定です。
このブログを記載するに至って、初めての方もおられると思いますので、
僕が一体どういう人生を歩んできたのか、
またどのような考え方で行動をしているのか
このブログの目的が何なのか?
などを時系列で紹介できればと思います。
少し長一覧いですがご購読いただけると幸いです
目次
1983年 和歌山県周参見町で生まれる
父、母、兄そして僕の4人家族として生を受けます。
幼少期のころは活発で、毎日外で山遊びをしたり川遊びをしたり釣りをしたりしておりました。
また4歳ころから絵に目覚め、人物像、風景画など暇があればずっと絵を書いていたような気がします。
一時期は漫画家にでもなろうかと、当時はやっていたギャグ漫画をひたすら模写する日々が続き、自宅に帰って宿題をやったあとはひたすら自分の漫画を描いていました。気づいたらノートに書き留めた単行本が10冊ほどになるが、
このときギャグ漫画家が
壊滅的な収入にしかないことに気づき
そんな割に合わないことは商売にするべきじゃないなと思い撤退。
7歳 キリスト教に出会う。
母がプロテスタントのキリスト教で小学校のころから毎週日曜日に教会にて賛美歌を熱唱、また思想と哲学の勉強をしておりました。
このとき聖書を熟読し、いろんな教えを聞く中で生きる死ぬについて真剣に考えることになりました。
「人間でなんで死ぬの?」
「死ぬの怖い嫌だ、、、、」
と夜の間恐怖で泣いていた7歳のころでした。
ある日なにかのきっかけがあったかは忘れましたが、
「どうせ人間はいつかは死ぬ」
「であればどのような死に方をすることが一番重要じゃないか?」
「僕は自分で考えて色んなことに挑戦して熱く死にたい」
と決心をしました。
このころから、何に自分は情熱を注ぐことができるのか?をずっと考え色々考えて手を出していました。
- 漫画
- ゲーム制作
- 絵
- サッカー
- 漫才
- 釣り
- 魚学者
子供が思いつきそうな興味があることどんどんチャレンジをしては考え、中途半端な自分に焦りを感じておりました。
幸い好奇心旺盛だったせいか、学校の授業が国語以外は大好きで※(国語は字が汚いのと、作者の気持ちを考えよがわからないので常に点数が悪かった)
学校の成績は常によく、特にソロバン塾に通っていたおかげか、算数、数学が得意でした。
クリエイティブなことも得意で、図工、音楽などもほぼほぼ5でした。
このころから右脳と左脳を行き来するすべをコントロールしていたような気がします。
またお金の計算なども大好きで、お年玉は全額貯金を行い、
釣りが大得意なのもあり
- 親から200円餌代をもらい、
- 100円で餌代に変え
- 残り100円で当時はやっていたカードダスでカードを買い
- 残り100円で家に持ち帰って食べれる魚を釣り上げ、
- 余った魚は近場のおじさん達に子供のかわいさで営業を行い販売
を行っておりました。
このとき小学3年生にして、カードダスの金と銀のカードを100枚あつめました。
おそらく投資額かすると5万円ほどは必要です。
この経験から商売に対する嗅覚がなんとなく鍛えられてたのではないかと思います。
13歳 中学校で人生に迷う
サッカー部に所属し、特に何を目指すわけでもなかったのでひたすら部活が終わったあとはRPGツクールというゲームを作れるソフトで自分が考えたストーリのゲームを作成していました。
超大作を何本か作っていたのですが、ゲームの記録容量がたりなくて中途半端に終了するケースが多かったです。
とにかく、作品を作る、またそれを人に見せたりやっていただいたりすることに快感を覚えていました。
このころ学校の中間テストや期末テストなどがあり、何を目指しているかないのであれば、勉強くらいはしておくかという気持ちで自ら進研ゼミを申し込み、国語以外は高得点をとっておりました。
進研ゼミで事前予習を行っていたのもあり中学の勉強は比較的に苦労した記憶がありませんでした。
中学3年生になり、進路を考えることになり、大体行きたいめぼしの高校も勉強しなくてもいける学力はあったので、夏休みに、本当に自分がしたいことは何なのかを一か月真剣に考える時間を作りました。
僕の家系や従妹のの家系は職人などが多く、大学になど進学する人がほぼおらず高校を卒業すれば何か手に職をつけるために専門学校にいくか、そのまま就職するかになると思っていたので、この1か月は真剣に悩み考え、図書館にこもって色んな本を読んだりして知見を広げておりました。
14歳、音楽業界に人生を絞り込む
いままで、絵に手を出したり、ゲームを作ってみたり、いきあたりばったりの
挑戦をしていたのもあり、どうせなら長く続けることができそれなりに収入がる仕事がしたいなと考えておりました。
そのとき、、、、
1997年ころ、GLAYのアルバムがMillionヒットをとばしたり、
小室ファミリーが全盛期だったり、非常に音楽業界がきらびやかな時代を築いておりました。
「音楽産業てもしかしたら儲かるんじゃないかな?今からの6年間20歳までに
誰もがやったことないくらい真剣に打ち込めば、一流のプロになれるのでは?」
と考え、一番儲かるのは印税収入だからプロデューサーを目指そう。
そのためには楽器ができないといけないから、何がいいかということで作曲作編、歌も手を出せるギターが消去法的に決まり、
まずはギターリストとして一流を目指すことにしました。
14歳の9月1日21時の決断。
この日はいまだに忘れられません。
2万時間の修行時代
僕
「高校いかずにギターリストになるわー」
父、母
「はあ!?せめて勉強できるんだから高校はでておけ!」
ということでしぶしぶ高校だけは卒業することにし、なんとなく、自分の学力で勉強せずとも入れる、商業科の進学コースに入学しました。
このとき決めたのが、高校生活をエンジョイするのは完全に捨てました。
一日最低10時間、休みの日は朝から晩まで17時間をひたすらギター、作曲作編などに費やしました。練習時間は5年で2万時間を超え、jazzからハードロック、ブルーズ、クラシックなどの音楽スタイルを体得しました。
ギターだけでは飽き足らず、プロデューサーになるにはマルチな能力が必要だということでベース、ピアノにも手を出しました。
このとき高校は音楽とそして、もう一つハマっていた麻雀しかやっていた記憶がありません。坊や哲にはまってました。
唯一練習できなかったのは修学旅行の数日間です。
気づけば5年で音楽活動に費やす時間は余裕で2万時間を超えていました。
19歳 プロのギターリストになる
18歳から和歌山の田舎から大阪に専門学校にいくためにやってきました。
学校には半年ほど通いその後ひたすら、練習+野外活動を開始し、現場力と人脈構築に励んでいました。
ちなみにこの時の学校の同期が2019年に解散した
「やなわらばー」が同じクラスでした。
この学校の1年間も狂ったように楽器の練習から外の活動に励んでいました。
一緒に練習していた友達などから大江流の練習方法を教えてくれと一度2日間合宿を開いたことがあったのですが、
ストイックすぎて、4人中2人が楽器をやめてしまうということがありました。
「おれ公務員になるよ、、、」
と数日後言われたときはびっくりしました。
てっきり専門学校に来ているくらいだから、一日10時間くらいみんな練習しているんだろうなと思っていたので少し反省しました。
19歳初めての音楽での仕事
そして大阪にやってきた9カ月後19歳になった2月、ギャラありの演奏の仕事をjazzの演奏でいただけました。
そこから活動の幅を少しずつ広げ、口コミで
・スタジオワークの録音の仕事
・ツアーのサポート、
・JAZZBAR、新地などラウンジでの定期的演奏の仕事。
・音楽理論のレクチャーから、ギターの講師
・結婚式場、レストランなどの演奏の仕事
・自分の音楽レッスン教室の開校
など仕事がどんどん入り、音楽だけで御飯がたべれるようになりました。
さりげにタンス預金で1年で数十万単位貯金していました。
音楽の仕事は、時期によって結構波がある仕事で、中々労働時間のに対する費用対効果も悪いなあと思いながらやっておりました。
21歳実家の稼業が倒産
このとき2002年から3年にかけて、ミュージックバーの倒産が相次ぐのとCDが売れなくなっておりました。
どんどんデジタルにとってかわり、音楽産業が頂点から下降線の一方にそのときに音楽で商売ができていた自分は危機感を感じておりました。
「もしかしたら僕は音楽産業のピークに手を出してしまったのかもしれない、、」
ちなみに下記データーは音楽業界の市場規模推移の引用
世界の音楽売上は2001年に239億ドルを記録して以降、下落が続き、
2014年には143億ドルまで縮小。
その後は上昇基調にありFPIによると世界の音楽売上は2018年に191億ドル(約2.1兆円)に達した。
これは前年から10%近い伸び(9.7%増)で、4年連続の成長。
また、2007年(184億ドル)以降で最大のボリュームとなる。年間9.7%という成長率は過去約10年間で最高の値だ。
FOREBS ビジネス 2019/04/03 12:00
https://forbesjapan.com/articles/detail/26451/1/1/1?s=ns
Jazzに至っては10年で10分のⅠになりました。
衰退産業に入ってはいくら努力しても中々大きくなれないと痛感しました。
この経験が
時代が押しあげてくれる産業の参入のタイミングの大事さがビジネスの中で最重要項目
という最大気づきになりました。
このとき
商売のしていた実家が自己破産に。
そのとき、経済的に救ってあげれなかった自分に嫌気がさし
社会的と経済的に価値があるビジネスマンや起業家や投資家になる。
そして
資本主義というゲームに翻弄されるのではなく資本主義を攻略しよう。
と決意しました。
そして起業家とはなんたるものかが理解できていなかっため、
商売とは物を売ることだろうと考え、営業職に就きました。
ちゃんとした社会経験なしでの営業職だったのでこれがまあ一苦労、、、
社会がわかっていない甘ちゃんだったので色々騙されたりしました。
このとき、浄水器からへんな電球から、謎の端末からあらゆる商品を売ることで営業力とトーク力を磨きました。まずは営業でNO1をめざすとこころざし、、、
途中で当時ヤフーBBや回線のインフラ事業が伸びていたので通信会社に転職し
先輩の営業同行して録音した音声を文字起こし速攻次の日には体得するスタイルとマニュアル化をしました。
睡眠時間もひたすら4時間ほどで働いてたような気がします。
給与の半分がコミッションの通信系の会社で2週間でトップセールスををとり1か月で20人ほどの部下をつけられ、それほどの人を扱ったことがないので
マネージメント系の本を読み漁りました。
僕のいまだに最強のマネージメントブック。
「人を動かす」
当時はインフラブーム真っ盛りの時期で月収100万プレイヤーなどがたくさんおり、調子にのった自分も車をワゴンRからクラウンに買い替え、
(※のちに事故をし、車は絶対いらない生活をおくると決める)
若気の至りを謳歌していた時代でした。
24歳通信会社起業→失敗
これだけやってたら自分でも起業しても通信事業をできるのでは?
という安易の考えで、とある会社の通信事業部をMBOし、50歳のパートナに誘われ通信事業を始めました。
しかし契約した初期条件とまったくことなり、回線の開通後6カ月後入金というやんちゃな契約に変更され、キャッシュが回らず8か月で廃業。
借金300万消費者金融、
金利で月7万円(当時は28%の金利)
家の荷物が
ギター一本
デールカーネギー
道は開けるのみとなりました。
このとき1週間は人生で一番へこみ、歯医者に行くお金がなく虫歯が強烈に痛く、金もなくちょっとしたどん底を経験。
悩み続けるのしんどいだけなので、
家に唯一あった道は開けるを徹底的に読み
「悩みを解決する方法はとにかく忙しくしろ」
を信じ。
昼は営業、夜は全国大手のキャバクラのボーイで借金を返済。
年末のキャバクラ出勤は2週間休みがなく、出勤6時から朝の5時まで、しかも全インフルエンザがかかっている状態でのふらふら営業。
そして毎日二日酔い+嘔吐状態。
大晦日の12月31日の大晦日夜の19時に自宅に到着し、ワンセグ携帯でダウンタウンの笑ってはいけないを見ながら、あほや(たこ焼き屋)で買ったぺちゃ焼きを食っているときが幸せすぎて涙を流しました。
25歳 4人でベンチャー企業立ち上げ
ふとある縁で、昼間の仕事でベンチャー起業を一緒に立ち上げないかということでIT起業の創立メンバーになりました。
このとき7か月給料が0円。
夜は生活費をかせぐためにキャバクラで働くというスタイルで睡眠時間が2時間半の生活を1年近くすごす。
そして4人全員が新規事業を作るという、なかなかクレイジーな経営スタイルで事業を皆でいくつか創造。
のちに一つの事業がヒットし、ちなみに10年後には15億以上の売上になりました。
このときの年齢までパソコンが触れず、ブラウザてなに?パワポてなに?htmlてなに?みたいなものを皆に教えてもらいながら一通り触れるようになりました。
26歳 WEBコンサル会社で修行
IT業界が楽しくなり、いろんな業界をITとWEBで解決したいと上場準備中の当時年商26億の本社渋谷のwebコンサル会社で修行すると決意。
リーマンショックの影響をもろ受け、全社の成績が振るわない中元々の経営者の嗅覚をいかし不況の影響をうけない業界にターゲットをしぼり、
数をかけるテレアポではなく、その会社の情報を徹底的に調べた上での専門のテレアポトークを作成し半年間200%達成をし続け、中間管理職になりました。
仕事は朝9時半から夜の23時までは当たり前で土曜日も月2回出勤はありましたが、
元々21歳から26歳までに一日も休んだ記憶がなく、
まったくノンストレスですごしサラリーマンてこんなに楽だったのかと感じながら人生の休業時間と勉強時間と考え、
無理しないスタイルで倹約と勤勉と営業に励み、
自分の英気を養うことと自信の取戻しなどに時間をかけました。
このとき時間がもったいないと思い自宅に帰ってからと土曜日、日曜日をの時間を活用して自分で独学でWEB制作を行ったり、amazonやヤフオクでセドリなどしながら小遣い稼ぎに励んでおりました。
目的無く暇するのが嫌な性分なのです。。。
29歳 ITベンチャーを起業
2012年4月資本金70万でWEBコンサル会社を営業開始。
webコンサルタントをしながら
- サイトディレクションからライティング発注
- wordpressサイト制作とhtml、PHPでの制作
- リスティング広告運用
- SEO対策
などを ほぼ一人+スポット外注で おこなっておりました。
半年ほどで月の売上40万~100万ほどになり、ストック収入も蓄積され高粗利率もキープしておりました。
そして、月の固定費が15万もかからないのもあり
お金はたまっていくので
週3日働き、あとはプールいったり海外調査にいったり、
半年ほどフリーランス的に活動をし
いろんなビジネスチャンスを探していました。
だいたい半年ほど自由な時間を過ごすと飽きが生じることがはっきりとわかりました。
そして海外を頻繁に行き来した情報収集と前職でのコンサルの経験を活かし、アベノミクスもスタートしたのもあり日本の景気上昇も感じ初め、
2013年2月に自社ビジネスサービスを立ち上げるために
このとき売り上げが月100万~200万しかないのに6人、人材を雇うという暴挙にでました。
そして新サービスローンチから7か月で月商1600万になり、
会社設立2年半で年商2億になりました。
自分で自社サービスを作り、育てる快感はたまらないものでした。
まったく携わったことのない業界でのサービスだったので日々勉強尽くしでした。
このとき僕があったWEBマーケティングと市場分析力を最大限に発揮しました。
30歳 MBA受講開始
学がないコンプレックスと、自己流でやってきた経営学を体系化したいと思い、
特に今までお金で悩まされてきたことばかりだったので
世界レベルの金融、ファイナンスロジックを学びたいと思い、
グロービス経営大学院に通いはじめました。
このときファイナンスの授業にはまり、ファイナンスの科目のほとんどを受ける。授業の予習には平均16時間はかかったと思うが楽しくてしかたなかったです。
正直急成長中のベンチャー企業を経営しながら学業に励むのはかなりのストレスでした。
体重が5キロほど増えました。
パーソナルジムにも通っていたので筋肉が半分ほど増加でしたが、、、
このときから体に非常に気を使い始めて、レーシックを受けたり、
1日一食法を行ったり、瞑想を行ったり、生活習慣を健康体に保つために実験をたくさん行いました。
32歳 会社設立3年 年商が4億になる
売上が
5000万→2億→4億に成長。
その成長の中下記のような失敗もしました。
- 運転資金狡猾で資金ショートを数回しかけ眠ぬ夜をなんども過ごしたり
- 事業成長スピードと組織成長スピードが追い付かず組織が疲弊したり、
- 派閥ができてスタッフが半分やめるなどの組織が崩壊しかけたり、
- 海外取引比重が70%だったときに円安の影響で原価が20%上がったり、
- 自社システム開発で4000万円の失敗をしたり
- 女性比率が高く産休ラッシュで育てた人材が足りなくなったり
年商5億30名までのベンチャー企業の失敗のあるあるはほとんど経験しました。
逆によかった面で言うと
・2016年に大阪府最大級のビジネスコンテスト
スタートアップコンテストで
3つの賞をとり賞金を300万もらったり
ちちんぷいぷいに出たり、FM神戸にでたり、
ハーバードビジネスレビューに2回取材された
ベンチャーキャピタルの方とたくさん合いたくさんの出資の話をうけたりしました。
成長加速中のベンチャー企業は良い面も悪い面も一気に起きるので
非常にメンタル的にも大きな波が生じ大きなストレスを抱えました。
自分はメンタルは相当タフなほうだと思っていたのですが何度か鬱のような症状が出て、手に変な汗をかいて寝れぬ夜を何度も過ごしました。
以下スタートアッパーの苦悩の引用文
スタートアップの9割は潰れる
「眠れぬ夜を過ごしたのは、ザッカーバーグもジョブズも同じ。」
「スタートアップにまつわる苦難を知っていたならば、誰も創業者にはならないだろう。」
スタートアップを始めたら「寝る・運動・食事」以外は、すべて仕事
今では、部屋を貸したいという登録物件数はおよそ世界190ヵ国34,000都市の約200万件におよび、世界で6,000万人以上の利用者を出しているAirbnbも(2016年4月時点)、資金難に苦しみぬいたスタートアップの一つです。
Airbnbは、ジョー・ゲビア、ブライアン・チェスキー、ネイサン・ブレチャージクの3人によって創業されましたが、Yコンビネーターの投資家に認められて資金調達に成功する前は、クレジットカードを30~40枚ほど使いまわして生活し、精神的に追い詰められ、ブライアンにいたっては約9キロも痩せてしまったそうです。
毎朝、心臓がバクバクした状態で目を覚まし、危機的な状況を抜け出す方法を一日中考えるも思いつかず、寝る前にベッドの中で物事は全てうまく運ぶようにできているんだと自分に言い聞かせる毎日だったと当時を振り返っています。
本ブログは、クラウド型バージョン管理・バグ管理・サービス「tracpath(トラックパス)」を提供している株式会社オープングルーヴが運営しています。
https://tracpath.com/works/story/90_percentage_of_startups_fail/
35歳 事業と自分の将来を考える
年商2億までは、ほぼ無借金経営を貫いてましたが、どうせなら上場かM&Aかを短期で目指そうと思い資金調達を実地しました。
- 劣後債資本制ローン1.3億
- 金融機関の調達3.5億、
- 第3社割り当て増資
- ストックオプション発行
などを行い。
キャッシュフローはマイナスを叩きながら会社を成長カーブに乗せました。
そのおかげで、売り上げ70%が既存顧客からの売上になり、
調達した資金の投資で赤字は掘っていましたが、投資効果が明らかに数字に表れ
事業を作り4年で事業に対する未来像もそれなりの創造ができるようになってきました。
調達した資金の投資で赤字は掘っていましたが、資本制ローンという特殊な資金調達で自己資本比率を高め、キャッシュポジションも月商の7倍を確保しながら企業の安全性を確保し、資金繰りに困らないように財務戦略も練り責めました。
この財務戦略面はグロービスMBAで学んだアカウンティング、ファイナンス理論をフル活用しました。
そしてその結果投資効果が明らかに数字に表れ事業に必要なKPI指標も確保でき、
自社サービス開始後4年で事業に対する経営の未来像も創造ができるようになってきました。
このときシリーズAからシリーズBにと複数とのベンチャーキャピタルとの出資の話も進んでおり、数億単位の資金調達の模索も検討しており次の事業展開を模索しておりました。
ここで2017年8月のお盆休み、、、、
僕が14歳のころに音楽で御飯を食べていくと決めたときと同じように
一度真剣に企業と事業の未来をあらゆるシュミレーションで検討してみることにし自宅に4日籠り瞑想を始めました。
お盆休みの4日間まったく外出せず、
食事もとらず4日で5キロやせました。
数字をいじくりまわし、20パターン以上のシナリオ分析を行い、
計算した結果
- 事業の成長
- 自分の成長
- 従業員の今後
を考えた場合に
僕の会社が運営する商品を開発または製造することができる
数百億規模の売上のメーカなどからの資本注入か売却する方向
に垂直統合型戦略の舵を取ることにしました。
当時の僕の心境と決意。
ここでなぜ会社売却に舵を取ったかの要因は
①上場しても時価総額が上がらない。
自社のビジネスモデルで上場したとしても時価総額が20億も満たず
上場する意味のない会社になってしまう。
②機械オペレーションのノウハウがない
ベンチャーキャピタルなどから出資を受けても、自社で販売している商品の利益率を上昇するために機械の購入におそらくお金を回すことになる。
そうなるとITやWEBマーケティングのことが分かっていても機械のオペレーションの素人の自社では優位性がたもてなくなるのではという懸念もありました。
③組織目標構造が上場orM&AなどのEXITしかない
無借金から借り入れをして赤字を掘ってでも成長をすると決めていた時から
会社を上場させるか、売却するかの道しか作らないときめて、事業作りを行っていた。
いわゆる単なる中小企業で終わってしまうのであれば、
そもそも自分が事業を作った目的と方向性が変わってしまうという理由もありました。
④自分の強味が生かしきれない構造に
僕の費やす時間のほどんとが、組織づくり、資金調達作り、になっており、
元々得意な人が創造つかないようなクリエイティブなことを発想し形にしたり、
様々な企業分析をしてコンサルティングをしてお客様に喜んでもらう、などの
現場から離れており、
「自分の仕事に対するやりがいって何なんだろう?」
と迷いが生じ始めていたのも理由としたりました。
このときのほどんの悩みが組織づくりが80%ほどでした。
若干組織づくりに疲れている自分もいました。
年商6億 会社を売却
MBAで培ったファイナンスロジックをフル活用し、M&A仲介会社を介さず、
- 株式価値
- 企業価値
- 事業価値
を複数パターン算出し、アタックリストを作成し、お世話になっている先輩方の知恵をかり、
- 会計基準の適正化
- 従業員残業代未払い
- 売却予定事業以外のスリム化とリストラクチャ
などを同時におこない、8か月で株式譲渡契約基本合意を締結しました。
そこから企業価値の適正を図るための
- 2か月におけるデューデリジェンスを行いクリアし、
- 従業員からの株の買戻しを行い一時的に借金まみれになったり、
- 企業債務の返済契約の交渉を各金融機関と行い、
- 事業だけではなく企業の株式を売却し
- 個人の連帯保証などの債務もすべてはずす
ことになりました。
この期間中は交渉は一人で行っており、親会社は金融機関出身2名などベテラン揃い常に8人体制でもあり、
ものすごいストレスを抱えながら事をすすめておりました。
サッカーを1対8で8か月間毎日試合をする感覚です。
すべての締結後、締結金額が口座に振り込まれ、
気づけば、わずかながらではありますが資産が築けておりました。
僕がお世話になっている、元上場企業の社長より、
「連帯保証がはずれると、空ってこんなに青かったんやーとなるぞ」
を言われておりました。
僕の中では青どころでなく大気圏のオゾンまで見えるくらい、スカッとした気持ちになり、心の余裕がうまれました。
会社を売却して思うこと
会社売却後数か月してぎりぎりの状態を常に保っていた、ベンチャー起業家独自の緊張感がふっと切れた瞬間がありました。
休日の頭を常に使うので実質休みがなく走り抜けたスタートアップ時代は多大なるストレスを抱えたのかと痛感しました。
おかげで入口から出口を構築するビジネススキルと人の何倍ものストレス耐性ができました。
会社売却後は正直うれしいかと言われたらそうではなく大きな喪失感がしばらく漂っていました。
今まで目標があったものがなくなってしまい自己存在理由がわからなくなってしまったからでもあります。
35歳ミニマリストに目覚める。
会社を売却したのもあり、様々なことの整理やモノの整理をおこなっておりました。
このとき出会った本が「僕たちにもう物は必要ない」
元々狭い家が好きで家賃も5万以下でで起業当初から同じところにすみ、固定費をさげていたのですが、気づいたらモノがあふれていました。
この佐々木さんの本に影響を受け、段階的に数千冊の本や、服、家具などの処分をすすめました。物を捨てることでどんどん感覚が研ぎ澄まされてき、本来自分に何が必要なのか?見えてきました。
会社を断捨離できたのなら、なんでも捨てれる自信は生まれます。
36歳 タ動力な働き方を始める
会社売却後に1年くらいセミリアイアしてみようかと考えましたがやめました。
理由は
色々自己分析した結果自分の中で一番苦痛なのが
- 目標なくだらだら過ごすこと
- 自分の成長を止めてしまうこと
- クリエイティブなことができない環境化
になります。
いわゆる挑戦していないと気が済まない性格なので
- 毎月のマラソン大会
- 年4回のサバイバル企画
- 自分主催の音楽イベント
など事業以外の活動もおこなっております。
健康と芸術を第一主義においてます。
実業について
CSOアウトソーシングコンサルティング
現在複数社の新規事業の立ち上げのコンサルティングや、
自分の創業した会社の顧問業を行ったり、
僕が経験してきたことが生かせるベンチャー起業や中小企業のアドバイザリーと仕組みづくりのサポートをおこなったりしております。じつはコンサル業務歴はすでに6年以上で実務経験を行っているので失敗要因をつぶす経営コンサルティングなどをご提供できるかと思います。
年商5億~10億の30名までの組織の0~10の事業作りから組織作りまでは経験しておりますので、事業のアドバイザー、資金調達、出口戦略などは相談に乗ることはできますのでお問い合わせいただければ幸いです。
面白そうなベンチャーは出資とハンズオンなども検討します。
WEBコンサルティング
WEBコンサルティングに関しては大体過去30業種ほどのサポートを僕自身がコンサルティングしてきた実績があります。
僕が作った会社は正直このWEBマーケティング95%で売り上げを立てていましたので実践的な相談に乗ることができます。
・WEBサイト制作、ディレクション、ワードプレスカスタマイズ
・SEO対策、コンテンツマーケティング
・リスティング広告
・ソーシャルメディア運営
・システム開発、導入
・グーグルスプレットシートによる業務の自動化
などの相談も随時受け付けております。
正直今の時代このWEBマーケティングスキルと自動化スキルがあれば引く手あまたの人材にはなれるかと思いますのでそのような人材を育成するサポートなども行っていければと思います。
ソーシャル事業
元々10年ほどブログ、ツイッター、ユーチューブ、FACEBOOKを活用して情報配信を行っており、そこからの仕事もかなりつながっていることから本格的に情報配信も仕事にしよう活動しております。
なぜ情報配信を本格的に始めようと思ったかというと、FACEBOOKに関しては習慣で毎日1投稿~2投稿を癖付けしていたので日々新しい情報や見ていただいている方に役立つ情報を配信しようと様々な本を読んだりニュース情報をあらゆる角度から取り入れたり、していた結果
大江さんの情報の質が高くて非常にためになります。
大江さんのあの記事のおかげで助かりました。
今度相談にのってもらえませんか?
など様々なお声をいただけることが多く、
「僕ってもしかしたらこのような情報配信が向いているのでは?」
と感じることが多々あったからでもあります。
自分の興味のある分野なら文章を書いたり、まとめたり、本を読んだり勉強する時間がまったく苦ではないので平気で10時間15時間文章を書いたりするときもあります。
とくにビジネスの実務から経営、会社売却、webマーケから音楽から幅広く、タ動力な人生を歩んできたので、リアリティに生かせる役立つ情報の提供ができるのではないかと思います。
またSNSが発展した昨今では、
会社の組織力よりフォロアーが多い
個人の影響力が社会に与えるにインパクトに大きな貢献をはじめている。
と考え、コツコツと更新を行っております。
そして5Gの時代が突入した場合、情報量の多い動画などが今後の主流になるでしょう。
今まで僕が感じたこと、どのように意思決定をおこなってきたか、などお役に立てる情報をお伝えできればと思います。
学業について
大学院の単位はすべてクリアし2020年4月にはMBA取得確定です。
これで僕の学歴コンプレックスがなんとなく解消できます。
本質的にはあまり気にはしていないけど、、、
週末と平日の半分は学業にかなりの
時間を取られていたので、現在では時間のゆとりができたのを実感します。ベンチャー企業をやりながら、MBA取得は中々ストイックな状態でした。
あまりがっつりはおすすめはできませんのでいったんは単科制度などをお勧めします。
ここで経験できたことは、実務で使えるMBAとは何なのか?
ベンチャーで使えるMBAとは何なのか?
などが自分の中で体系化できることになりました。
実務で使えるMBノウハウなどを生かし、貢献できればと思います。
投資について
現在売却した使い道がまずない資金の一部を投資に
回しております。MBA学習で培ったファイナンスロジックと投資ロジックを
フル活用できるファンダメンタル80%、20%テクニカルな投資スタイルをとっています。
僕が行う投資方法
- 米国株&ADR株中心
- バリュー長期投資
- 高配当株連続増配銘柄投資
- ドルコスト平均法投資
- バフェット銘柄シーゲル銘柄半々投資
- 割に合う 少額 株主優待投資
ちなみにKPIは資産の増額ではなく、配当金の積み上げをゲーム感覚で楽しむことが目的でもあります。
最後に
リアルな投資実績の情報提供と自分がどう感じ、どう行動したかの備忘録も踏まえ将来のお金に対する不安を抱えている方々の投資の判断軸のお役に立てればと思います。
来年37歳 MBA卒業予定。試験に落ちたので1年延びてしまった、、、
こういうところが抜けているなあ。
実家破産、高卒、専門卒の僕でも起業し、資産を作り、大学院まで卒業したといろんな人の励みになれればとも思います。
上場株式投資家としてのMBAで培ったファイナンスと企業分析力のおかげと、5年間海外取引と英会話で培った適当英語力のおかげで、海外株投資も比較的楽しみながらアニューアルレポートを読んでわくわくしています。
色々過去の知見を活用した情報配信できればと思ってます。
暇するのが嫌なのと、仕事と音楽と運動と旅と没頭することと質素倹約と情報収集と配信が大好きで人生を色々楽しんでいければとおもってます。
とくにエンタメとアーティストチックな活動には積極的にお声をおかけください。
最後までご購読ありがとうございました。
大江栄年